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Innerview-インナービュー 内側から見た世界

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スピリチュアリティの探求


(質問)どうしたら自分のしているスピリチュアルな探求がエゴトリップ(*エゴを満たす行為)ではなく、真正な宗教的探求だとわかるのでしょう?


(OSHO)もしそれがわからないなら、もし混乱しているならば、それはエゴトリップだと思いなさい。あなたが混乱しておらず、それは真正だとよくわかっているなら、少しも混乱していないなら、それは真正なものだ。それは誰かを欺くという問題ではない。それは自分自身を欺くかどうかの問題だ。あなたが混乱し、疑わしく思うのなら、それはエゴトリップだ。なぜなら真正な探求があれば、そこに疑いはなく、確信が起こるからだ。

別の言い方をしよう。そのような質問を述べるときはいつでも、まさにその混乱があなたは間違った道にいることを正確にあらわしている。ある人がやって来て私に言う。「教えてください。瞑想が深まっているのかどうかわからないのです。」
そこで私は言う。「もし深まっているなら、ここに来て私に聞く必要はない。深みというのはそれほどの体験だ。あなたにはわかるはずだ。そしてあなたにわからないのなら、誰にそれがわかると言うのか。あなたは深みを感じられないから、私に聞きに来たのだ。誰かに認定してほしいのだ。もし私が「そうだ、あなたの瞑想はとても深まっている。」と言えば、あなたはとても気をよくするだろう。―これはエゴトリップだ。」

病気ならば、自分で病気だとわかる。ときには病気がとても隠れていることもありえる。それには気づかないかもしれない。だが、その逆はありえない。完全に健康だったら、あなたにはそれとわかる。それは決して隠れることはない。あなたが健康ならば、それはわかる。病気に気づいていないということはあるかもしれないが、健康は―もし健康さがあれば―それに気づく。なぜなら、まさに健康という現象が幸福の現象だからだ。あなたが自分の健康を感じられないなら、誰がそれを感じるのか。不健康についてなら、どんな病気なのかを告げる専門家がいるかもしれないが、健康について話す専門家はいない。そんな必要はないからだ。だが、健康か不健康か尋ねるとしたら、あなたは不健康だ。それだけは確かだ。まさにその混乱が示している。

だから、スピリチュアルな探求にいるなら、それがエゴトリップか真正な探求かはわかる。まさにその混乱がそれは真正な探求ではなく、ある種のエゴトリップだということを示している。エゴトリップとは何か?それは実際の現象によりも、それを所有することに関心を持つことだ。

人々がやって来ては、このように言う。「あなたはご存知なのですから、私たちについてもわかるはずです。クンダリーニが上昇したかどうか教えてもらえませんか?」彼らはクンダリーニついて気にかけない。少しも気にしていない。彼らはお墨付きを必要としているのだ。そして、ときどき私はからかって「そうだ。あなたのクンダリーニは上昇した。」と言う。すると、たちまち彼らはとても幸せになる。とてもふさぎこんで、悲しそうにしていた人が、「そうだ。あなたのクンダリーニは目覚めた。」と言うと、まるで子供のように喜ぶ。

その人は嬉しそうに去っていく。ちょうど部屋から出たところで、その人を呼び戻して「ちょっとからかっただけだ。それは本当じゃない。あなたには何も起こっていない。」と言う。すると彼はまた悲しくなる。その人は本当には少しも目覚めを気にしていない。ただいい気分になることを気にしている。クンダリーニが上昇したのだから、他の人たちより優れていると感じられる。

これが多くのいわゆるグル(導師)たちが食い物にするやり方だ。というのも、あなたはエゴのためにいるからだ。彼らはあなたにお墨付きを与えられる。こう言うことができる。「そうだ。あなたはもはや目覚めたのだ。あなたはブッダ(覚者)になった。」そう言われても、あなたは否定しないだろう。私がこれを十人の人たちに言ったら、十人のうち九人は否定すまい。ただ幸せに感じる。彼らは「あなたは目覚めたのだ」と言いそうなグルを探していたのだ。

偽物のグルはあなた方の必要性のために存在する。というのも本物のグルはそんなことを言ったり、お墨付きを与えたりはしない。―なぜならお墨付きというのはエゴからの要求だ。いかなるお墨付きも必要ない。あなたが体験したのなら、体験したのだ。世界中がそれを否定したところで、否定させておけばいい。何の違いももたらされない。もし本物の体験があれば、誰かがあなたは達成したと言おうと、達成していないと言おうと、どうでもいいことだ。それは無関係だ。だが、それは無関係ではない。なぜなら、基本的にあなたが求めているのはエゴだからだ。あなたはすべてを達成したと思いたい。

そしてこうしたことは何度でも起こる。―世間で失敗者になると、世間にいて惨めになると、そこで成功できないと、野心が満たされないまま人生が過ぎていくと、あなたはスピリチュアリティへと向きを変える。今度は同じ野心がこちらで満たされることを願う。そしてこちらで満たすのは簡単だ。―簡単、というのもスピリチュアリティにおいては、簡単に自分をだませるからだ。現実の世界、物質の世界では、そうは簡単にだませない。

あなたが貧しければ、どうやって金持ちのふりができる?そんなふりをしても、誰もだまされない。それでも、自分は金持ちだと主張しつづけたなら、社会全体が、まわりの人々すべてが、あなたは気が狂ってしまったと思うだろう。

かつて自分をパンディット・ジャワハラル・ネールーだと思いはじめた男を知っている。彼の家族、友人、誰もが彼を説得した。「そんな馬鹿なことを言っちゃいけない。でないと、気が狂っていると思われるぞ。」
だが、彼は言った。「私はたわごとを言っているんじゃない。私はジャワハラル・ネールーなんだ。」
彼は「ジャワハラル・ネールー」と歌いはじめた。彼は国会議事堂に、官吏たちに、収税官に、警察署長に「今から行く―パンディット・ジャワハラル・ネールー」と書いた電報を送ってよこした。
彼を捕えて、家で鎖につながなければならなかった。私は彼に会いに行った。彼は私の村に住んでいたのだ。彼は言った。「君は理解のある人だ。君ならわかる。こうした馬鹿どもには、私のことはわからないんだ。―私はジャワハラル・ネールーなんだよ。」
そこで私は言った。「そう。だからこそ私は会いに来たんだ。こうした馬鹿者どもを恐れることはない。あなたのような偉大な人はいつも苦しんできたのだから。」
彼は言った。「そのとおりだ。」彼はとても幸せそうに言った。「私のことをわかってくれるのは君だけだ。偉大な人物は苦しまねばならぬ。」

外の世界で自分をだまそうとすると、気が触れたのだと思われる。だがスピリチュアリティに関してなら、話しはとても簡単だ。クンダリーニが上昇したと言えばいい。ただ背中が痛いというだけで、クンダリーニが上がったことになる。脳が少しバランスを崩した感じだけで、センターが開いたのだとあなたは思う。慢性的に頭痛がすると、第三の目が開いていると考える。あなたはだませるし、誰も何も言えない。それに誰もそんなことには興味がない。だが、「そうだ、それがものの進み方だ。」と言う偽者のグルがいる。するとあなたはとても幸せに感じる。

エゴ・トリップとは、自分自身を本当に変容することには興味がないということだ。あなたは言いふらすことに興味があるだけだ。言いふらすのは簡単だ。それは安く買える。それは持ちつ持たれつだ。グルが、いわゆるグルが、あなたを目覚めた者だと言えば、もちろん彼があなたを目覚めさせたのだから、あなたはグルに敬意を払わないわけにはいかない。それは持ちつ持たれつだ。あなたは彼に敬意を払う。今度はそのグルから離れられない。というのも、そのグルから離れた途端、あなたの目覚めが、あなたのクンダリーニがどうなるかわかったものではないからだ。あなたは離れられない。グルはあなたに依存している。なぜなら、あなたが彼に尊敬と名誉を与えているからだ。そして、あなたも彼に依存している。なぜなら、誰もあなたが目覚めているなんて信じないだろうからだ。あなたは離れられない。これは共同のはったりだ。

もしあなたが本当に探求しているなら、ことはそんなに簡単ではない。それに、あなたはいかなる証人も必要としない。それは困難で骨が折れる。何生もかかるかもしれない。しかも痛みに満ちている。それは長い苦しみだ。なぜなら多くのものが壊されなくてはならない。多くのものが超越されなければならない。長く歴史のある束縛を打ち破らなければならない。それは簡単なことではない。それは子供の遊びではない。それは骨が折れ、苦しみが伴うことになる。なぜなら、自らのパターンを変えはじめれば、必ず古いものはすべて落とさなくてはならないからだ。そして投資のすべては古いものの中にある。あなたは苦しまずにはいないだろう。

エゴを探して内側を見はじめて、それが見つからなければ、あなたが生きてきたイメージはどうなる?あなたはいつも自分のことをとても善人だとか、道徳的だとか、ああだとかこうだとか思ってきた。―それはどうなる?あなたがどこにも見つからないことがわかれば、その善人はどこにいる?エゴは自分について考えてきたことすべてを含んでいる。すべてがそこに含まれている。それは簡単に捨てられるようなものではない。それはあなたであり、あなたの過去全体だ。それを捨てると、あなたはまるでゼロに、まるでかつて存在したことがないかのようになる。あなたは初めて生まれてきたように、経験も、知識も、過去もまったくない―まるで無垢な子供のようになる。それには大胆さが、勇気が必要だ。

真正な探求は骨が折れる。エゴトリップはとても簡単だ。それはとても簡単に満たされる。というのも本当には何も満たされないからだ。あなたは信じはじめる。あなたは自分に何かが起こっていると信じはじめる。あなたは時間とエネルギーと人生を無駄にしているだけだ。だからあなたが本当にマスター(師)とともにいると、マスターは絶えずあなたをトリップから引きずり戻すだろう。マスターはあなたの気が狂わないように、夢の中で考えはじめないように気をつけていなければならない。マスターはあなたを引きずり戻さなくてはならない。

そしてそれはとてもとてもむずかしいことだ。というのも、あなたは引きずり戻されるたびに、マスターに復讐するからだ。「私はとても高く上昇して、爆発寸前だったのに、『何も起こってはいない。あなたはただ想像しているだけだ。』とマスターは言う。」あなたは地面に引きずり戻される。

本物のマスターとともにあって、弟子であるのはむずかしい。弟子はほとんど常にマスターに反さざるをえない。なぜなら、弟子はエゴトリップしようとしているのに、マスターはそこから連れ出そうとするからだ。そして、こうした弟子たちは偽物のマスターを創りだす。彼らには必要性が、それほどの必要性がある。誰であれ必要性を満たしてくれる者が、彼らのマスターとなる。そしてエゴを育てるよう助けるのは簡単だ。なぜなら、そのためにあなたはいるからだ。エゴが消え去るよう助けるのはとてもむずかしい。

よく覚えておきなさい。毎日、一瞬一瞬、自分の探求がエゴトリップではないかをチェックしなさい。チェックしつづけなさい。それは微妙だ。そしてエゴのやり口はとてもとてもとてもずるがしこい。それは表面にはあらわれない。エゴは内側から、無意識の深いところからあなたをあやつる。だが、あなたが注意深ければ、エゴはあなたをだませない。注意深ければ、その言葉がわかるようになるだろう。そのフィーリングがわかるようになるだろう。というのもそれはいつも体験を追い求めているからだ。これがキーワードだ。

エゴはいつも体験を探し求めている。―性的だろうとスピリチュアルだろうと、それは関係ない。エゴはあれやこれやを体験することに―クンダリーニを体験したり、第七身体を体験したりすることに貪欲だ。エゴはいつも体験を求めている。本物の探求とは体験への貪欲さではない。なぜなら、どんな体験もあなたを欲求不満にさせるからだ。あなたは必ず欲求不満になる。―というのも、どんな体験も繰り返しになるからだ。そうなったらうんざりしてしまう。そうして、あなたはまた何か新しい体験を要望するようになる。

堂々巡り

新しいものへの探求は依然としてエゴのものだ。あなたは瞑想する。人生が退屈になったからといって、ただ新たなスリルを得るために瞑想しているだけなら―平凡で決まりきった生活にうんざりしたので、何かスリルがほしい…スリルは得られるかもしれない。というのも、人は何でも自分が見いだしたいものを得るからだ。それは不幸だ。―何であれ望んだものをあなたは見いだす。そうして、あなたは後悔するだろう。あなたはスリルを得る。そうなったらどうする?それにもまたうんざりする。そうして、LSDや何かを欲しがる。そしてただ新しいスリルを探して、このマスターから別のマスターへと、このアシュラム(道場)から別のアシュラムへと移りつづける。
エゴは新たな体験への貪欲さだ。新しい体験はすべて古くなる。何でも新しいものは古くなるものだ。―そうして、また同じだ…スピリチュアリティとは実際には体験への探求ではない。スピリチュアリティは自らの存在(being)の探求だ。体験を求めているのではない。―至福さえ、エクスタシーさえ求めない。―というのも、体験は外側のものだからだ。いかに内面的でも、それは外側だ。

スピリチュアリティとは本当の存在(being)への探求だ。―自分の実在(reality)はどんなものかを知らなくてはならない。そしてその知ることによって、体験への貪欲さはすべてやむ。その知ることがあれば、衝動はなくなる。―新しい体験へと向かっていこうという衝動はなくなる。内なる真実の実在を、真正なる存在を知ることで、あらゆる探求はやむ。

だから体験へ向かっていってはならない。あらゆる体験はマインドのトリックだ。それはただの逃げ場だ。瞑想は体験ではない。それは自覚(realization)だ。瞑想は体験ではない。むしろあらゆる体験の停止だ。このために、内なる出来事を本当に表現しようとした人たちは―たとえば、ブッダは―「そこで何が起こるのか尋ねてはならない」と言う。もし、しつこく訊いたなら、「そこでは何も起こらない」と言うだろう。
もし私が瞑想の中で何も起こらないと言ったら、あなたはどうする?あなたは瞑想するのをやめてしまうだろう。もし何も起こらないのなら、なんの役に立つ?―それがエゴトリップだということを表している。私が何も起こらないと言ったら、あなたはこう言うだろう。「いいでしょう。私はたくさんの出来事や体験を知りました。あらゆる体験は欲求不満にさせるものでした…」あなたはそれを経験して、それは無価値なことだとわかった。そうして繰り返そうという衝動が起こり、繰り返すこともまた退屈になる。そうしてまた別なものへと向かっていく…これが何生にもわたって、あなたがすごしてきたやり方だ。何千何万生ものあいだ、体験を追い求めてきた。「私は体験を知った。もう新しい体験は欲しくない。私は体験者を知りたい。」とあなたが言うなら、力点全体が変わる。体験とはあなたの外側にあるものだ。体験者はあなたの存在(being)だ。

これが本物のスピリチュアリティと偽物との区別だ。あなたが体験を求めているなら、そのスピリチュアリティは偽物だ。体験者を求めているなら、それは本物だ。だがそうなったら、あなたはクンダリーニを気にかけない。チャクラを気にかけない。こうしたことすべてを気にかけない。それらは起こるだろう。けれど気にかけない。興味がない。こうした脇道にはそれない。あなたは内面の中心へと向かっていく。そこでは全面的にひとりあるあなたのほかには何もない。意識だけが残る。内容はない。

内容は体験だ。何であれ体験したものは内容物だ。惨めさを体験する。―そうしたら惨めさが私の意識の内容物だ。そして喜びを体験する。―そうしたら喜びが内容物だ。退屈を体験する。―退屈が内容物だ。そうしてあなたは沈黙を体験できる。―そうしたら沈黙が内容物だ。あなたは内容を変えつづける。無限に変えつづけられるが、これが重要なものではない。

重要なのはこうした体験をしている者だ。―退屈している者、至福を感じる者。スピリチュアルな探求とは、何が起こるのかではなく、誰に起こっているのかだ。そのときエゴが生じる可能性はない。

OSHO:Vigyan Bharav Tantra

座って



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